白光真宏会-北陸

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「君が代」森井啓二著×増川いづみ  「きみがよは ちよにやちよに さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで」(参考資料)

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これは「きみがよ」を読み解くというよりも、高次元の世界へ飛翔するための道標であり、その最終局面に私たちは立っていることを自覚させてくれる素晴らしい著書であるように思います。

著書の中の言葉を少しだけピックアップしてみました。  (うちなだ集会・塩谷祐子)

 

「きみがよ」は 愛と智慧を凝縮した大樹の種子

読む人の霊的成長に伴って 愛と智慧が広がる大樹に育ち

次々と開花していきます

 

万物万象には 各々それ自体が奏でる 独自の音があります

花も樹も細胞も原子も そして人の思いも行動も 光も愛も

すべてが音楽的な波動で繋がり 調和しています

 

宇宙の中に人がいるように思えても

人は宇宙そのもの

宇宙の中で起きているすべてのことは

自分の中に起きていること

 

この二元性の世界では すべてに両極があります すべての極同士は 愛の力によって融合され

一つに戻ります

 

愛は 自我意識が持つ幻の境界を 消す力を持っています

すべてを愛で表現することが 自己と他の存在との境界を無くし 本来の一つに戻るための鍵

すべては一つ

 

心が光に向かい始めた時 心が神に向かい始めた時

人は自分の肉体や感情で作られた 制限から解き放たれ

この地上に来た目的と 自分が大いなる価値ある 存在であることを

理解します

 

私たちは光の種子 自ら進んで暗い土の中に入った勇者たち

今一斉に光の方向に向かって 芽を出し始めています

私たち自身の光の開花は 地球の波動をさらに光り輝かせ

想像を超える美しい世界の創造に 携わります

人は絶え間なく成長し続ける 光の存在です

 

男性性は常に攻撃性を有し、それを視えない形で優しく創造性な積極性へと変容させる力を持つのが女性性だからです。

霊性の進化には、強い男性性の推進力と探求心、それに愛を加えて光の方向へ向かわせる女性性のバランスが必要なのです。

自分で自分の眼球が見えないように、自分の心にある自我も心では見ることはできず、外側の世界の表現を通して知覚されます。

 

火は穢れを焼き祓い、水ははその焼かれた灰塵の穢れを流す役割を持ちます。そのため創造においても、浄化においても、火→水の順序になります。

 

遥か昔の地殻変動で現在の大陸の位置に落ち着いた際に、日本は世界の雛形として創造されました。

その時の創造に携わった魂たちが、新しい世界へ移行するための準備として、現在の日本に多く転生しています。

新しい世界では、思考が頭からハートに移ります。

瞑想をしているとハートのチャクラから光が放射されており、それが霊的太陽の分身であることを実感することでしよう。新しい世界は、この太陽(日の本)の光から始まります。

 つまり新世界は、日本が牽引役になるとともに、地球上すべての人に内在する日の本からも始まるのです。

 人は幾多の輪廻転生における経験を通して内在する真我に気づいたら、ハートにほのかな光が灯ります。その光は目覚めた高次元の存在に見逃されることはなく、それから偶然のように見える賢明な手段により、光明の世界へと誘われます。

 この二元性の世界と実在世界と大元神は、一から八までと、九十、〇で区別して表記されることがあります。一から八までは循環し、次元が上昇する時期に初めて九へと進めます。

そして、「言・ことば」と「事・こと」を使わなければ(宇宙の法則に従わなければ)到達できません。これは神の世界へ行くには、様々な「こと」(出来事)を体験することや、「ことば」に象徴される神の知性に従い導かれることが必須です。

 このような心を込めた日々の行為の積み重ねは、魂の進化に大切なのです。神を信じるということは、神社に行ったり、神事や儀式を見たり参加したりするだけでなく、日常生活において至高の神を信じて心を込めて生きることが何よりも大切です。

 この世界は自分の内面を映し出す鏡として存在します。清らかな思い、言葉、行いによって鏡を綺麗に磨けば磨くほど、自分の本当の姿がよく見えてくるはずです。そこに真の幸福があり、真の人生の目的が見つかります。

 

 人の意識の流れは 崇高な目的を持って生きること 神に向かうことが自然な流れです

 私たち自身に 神が内在しているのですから 叡智と愛の想像力を 自らの体験を通して

理解することが 本当の自分探しです

すべての叡智

すべての真理

すべての愛は 自分の中に内在しています

それは 頭を使って 知識として理解するものではなく

すべての思い 日々の言葉 そして行動を通して ハートで理解されるものです

 

大地は 私たちの身体を 形成する素材の源

地の元素は 集中力を高め 自信と落ち着きを強化します

忍耐強くなり 何事に対しても動揺することのない

強い意志と責任感 安定感が生まれます

そして すべての存在との 繋がりを保ったまま

高次の意識へと 飛躍することができます

 

火の元素には 太陽のエネルギーに 象徴されるように

愛する力を強化し 新しいことを始めるための

活力を与え 何かを遂行する原動力となり 心を熱くし

性エネルギーの活性化 生きる力の喜び 明るさ・発芽

成長させ 開花させ 熟成させる力や 直観を引き出す力があります

 

水の元素には 浄化 平和 安らぎ 潤滑

すべてのものをひとつに繋ぎ 広げ 調和する

大地と密接に関連しあう安定感

胎児が羊水の中にいるような心地よさ

川のように自由に流れ

湧き水のように湧き出るような

喜びや想像力があります

 

空には すべてを包括するような役割があります

すべてが空から発生し 空に収束していきます

空の元素が充実していると すべての元素のバランスが

とれやすく 気が充実し 自由で大きな広い心を

保つことができ 心に安らぎや余裕が出来ます

他の四つの元素が強化され バランスがとれてくると

空が覚醒してきます

 

木のエネルギーと繋がり 自然界の癒しの エネルギーと 繋がり合いましょう

樹木は根を通じて 大地と結びつき 幹と葉と枝を通して

太陽の力と結びついている 架け橋となる存在です

 

内なる体験(霊的な体験)を外側に公表することは、魂の進歩を鈍らせるだけでなく、霊的な能力を弱めてしまいます。・・・・・・・

それを人の為に役立てたいからという名目であっても、その根底にはエゴと、宇宙の叡智を無視した欲望があるのではないでしょうか。・・・・・・・・・

自然に開花した能力には、エゴがなく、霊的な意図に沿った有用な使い方が可能になると思います。その時には、多くの大師たちが行っているように、誰にもしられず自然な状態のまま人の役に立つことができるでしょう。

 

私たちの存在自体と行為のすべてを愛で表現することで、自己と他の存在との境界がなくなっていきます。心から海を愛すれば、海との一体感を感じます。山を愛すれば、山との一体感を感じるでしょう。そうして愛を深めていくと、あらゆる生き物、大自然、太陽、星々との境界線はなくなっていきます。そしてすべての二元性は消えていきます。

 

今回のような古い世界の終焉と新しい世界の始まる浄化の時期には、多くの困難と混乱が生じます。

様々な混乱は、新しい高次の光が地球に降り注ぎ、強まるに従って、今まで長い年月にわたって蓄積されてきた不調和な波動が表出することで顕在化していきます。それは人と地球の両方に起こります。

太陽は、人の集合意識を含む諸方からも影響を受けながら、黒点を作り、大規模なフレアを放出させます。

地球は自らの浄化のために、このエネルギーを効率よく捕捉してスムーズに流すために、近い将来に地軸を最適な位置に移動させるかもしれません。

このような物質世界の視点から見た混乱は、普遍意識から見ると秩序立ったものであり、地震も噴火も、戦争も飢餓も、すべては人智を遥かに超えた目的のために創り出されています。

 

世界の食糧問題を解決したいなら、まず自分の食生活を見直すことから始め、富の不均衡を直したいなら、まず自分の貧欲を消すことから始め、戦争をなくしたいなら、自分の攻撃性を昇華させることから始めなければなりません。

現在世界中で戦争が絶えないのも、一人一人の心の平安が足りないからでしょう。

ゴミ問題も、環境汚染も、一人一人の心に無駄な虚飾と過剰な欲望が存在するからでしょう。

心の汚染が世界の汚染に繋がっているのです。

この世界は自分の内面を映し出す鏡、心を澄ませることによって鏡を磨けば、自分の本当の姿がよりよく見えてくるはずです。

さらに、鏡に映る姿を美しくする方法は、自分自身を美しくすること。つまり、地に足をつけながら崇高な理想を持って、思いと言葉、行動を清らかにするよう意識することです。

清らかな思いと神を求める心は、霊性進化に必須の条件です。

例えば、電子メールを書いてもインターネットに接続していなければ、相手には伝わりません。それと同様に、清らかな思いと神を求める心が、インターネット接続と同じように、神に伝える役割を果たしています。

メールの送受信に地位や財産が関係ないように、神と繋がるためには地位も財産も重要ではなく、神を求める清らかな思いが最も大切なものとなります。

 

この世界では、思いと言葉と行動のうち、思いを軽視する傾向があります。多くの人は思考を、物質とは違って実体のないものと考えているからです。しかしながら実際には、思考された時点で、心に描いたすべての行動は存在し、その中の一部だけがこの物質世界の出来事へと顕在化します。顕在化されなかった思考も無ではなく、エネルギーとして実際に存在し、多くの人の思考に影響を与えます。例えば、感謝の気持ちは、物質と同じくらい実体があるものです。

それは視覚を超えた輝きに満ちた様々な形態を呈する光の躍動として表現されていて、その光の躍動は多くの人の心を高みへと導く助けになります。

これが、思いと言葉と行動が一致していることが大切な理由の一つです。

 

病気は、学びが多い課題であり、過去のカルマを効率よく解消してくれるだけではなく、その人の人生をより良い方向に導くためのもの、魂の進化のためにあらかじめ高次の意識によって仕組まれた計画の一部である場合もあるのです。

病気の治癒過程において、その病気の根本原因とまっすぐに向き合う体験をすることにより、病気以前よりも、さらに高い意識レベルへと進化する役割があるということです。

真の治癒は、単なる病気の症状の消失よりも、はるかに深いレベルで起こるものです。

 

 

現在はこの最終局面に来ています。

地球も人も波動が高まってくるにしたがって、もうこのような枠組みや境界、制限に囚われた仕組みは必要ない段階に来ています。

 

すでに太陽系には物質レベルの表現型を持たない惑星が存在しますが、地球も同様に物質世界からの視点では光の中へ消えてゆくように見えることでしょう。

そこに住む人々も波動が高まり地球とともに移行していく人と、別の惑星に魂の移行の場所を移していく人が出てくることになるでしょう。

 

「あいうえお」から「あおうえい」という本来の順に戻ることを「いはおとなりて」で表現しているのです。

 捕捉・本来の流れは「あおうえい」で現在の流れ「あいうえお」は物質文明の流れであり、これが霊文明として「あおうえい」の流れに戻る。「あいうえお」の「い」と「お」が入れ替わることによって頭の「あ」と最後の「い」つまり「愛」の中に、「おうえ」の働きが収まる。すべては愛の中にある。

 

自分が人にされた悪いこと他人のために行った善いことは忘れた方がいいでしょう。

 

古代の創世記の日本には、普遍意識に達した高次の意識を持つ集団が存在しました。

地球を去った後も日本には「和」の精神として、その集団の高い精神性の片鱗は、日本人の心の中に残り伝わっています。

そしてその影響は世界各地にも広がり、各地に日本の遺跡に残された印と同調する痕跡が残されています。

古代日本にいた大師たちは、地上では表現できないほどの美しい純白のオーラに包まれ、現在の地上の人々から見ると神のような存在として地球を見守っています。

彼らが地上時代にいた日本が、この時期に再び人類の進化の中心となる役割があることは必然なのです。

 

この与えられた短い時間の中で、私たちは太陽に向かって目を出す、すなわち真の自己を発見しなくてはなりません。

今までの混迷の時期には、多くの人が土の中で光を見失いました。

そして今、光の方向が明確になり、一斉に種子から光の方向に向かって芽を出し始めています。

芽を出すのに必要なのは、強い勇気と信念。

一度光に向かって土の外に芽が出たら、あとは眩しい光の中で成長し、美しい花を咲かせることができるでしょう。

自分のハートに積極的に光を取り入れてください。

それによって二元性は消えてゆき、至福の光が開花していきます。

そして私たち自身の光の開花は、地球の波動をさらに光り輝かせる助けとなり、想像を超える美しい世界の創造に携わることになります。

(君が代・https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784864712972

 

「私の一冊」小説 阿難(白光図書より) S・N

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このご著書を拝読するたびに感動するのは三つ要素のことと存じます。

 ① 登場人物の心理描写を深める際立った自然描写、そこから醸しだされる抒情性。

 ② いつの時代にあっても変わらぬ人間の愛の種々相、愛することの哀しみから愛しみへの  昇華のドラマ。

 ③ 全編んをつらぬく絶対の光明思想。大慈悲心、大慈愛。

今回は絶対の光明思想について、書いてみたいと存じます。

 ある集会場に出講した時のことでした。一人の青年から本書第二部の「提婆の最後」

の、あの含みの多いシーン“提婆は菩薩として我らを導きつづけてゆくのである”という釈尊の言葉について、質問を受けたのでした。最低地獄に落ちていった提婆がどうして菩薩なのか…?、誰もが疑念を抱く箇所です。

 私は、それまで学んだことを踏まえて精一杯お答えいたしました。しかし何かスッキリしないものが残っておりました。あの答えで間違いなかっただろうか、と気になりましたので、思い切って五井先生にお伺いすることとし、高橋編集長(当時)にそれを託しました。

 高橋編集長より頂戴したお手紙には次のような五井先生のお言葉が記されていました。

「人間本来みな仏である。それ以外のものはみな消えてゆく姿であり、消えてゆくのだ。提婆の場合も、悪いことはみんな消えてしまっているのだ」

私はいささか拍子抜けいたしました。もっと詳細なご解説をいただけるものと考えていたからです私のこの反応を予期されたのでしょう。高橋編集長は次のように付記してくださいました。

「……とすると、残るのは本心である提婆のみとなります。お釈迦さまの目には、過去世の業因縁の影である提婆は映っておらず、映っても前を通り過ぎる雲にすぎず、本来の姿である仏子提婆のみが映っていたのであろうと思います」

 あれから十年以上になりますが、このお言葉が了解(りょうげ)できたわけでわありません。この箇所こそみ教えの核心であると思うのですが、頭脳作業ではその核心に触れることはできないと、つくづく思わされます。

 「まだ、わからぬと見える。業生はみな消えてゆく姿である。実在するものは仏性のみである。この理がわからぬうちは、み仏の真の姿がわかりようがないのである」と、神界の五井先生が仰っておられるでしょう。

 阿難尊者のように「み教え、心にしみてわかりました。迷い心、全く消え去りましてございます」と、お応え申しあげられる日が、いつか私にも到来するのでしょう。

(白光図書読書感想文「私の一冊」より)

◎2019年11月10日の富山練成会の資料からお許しを頂き掲載させて頂きました。(I)

「宇宙の責任者はあなたです」斎藤秀雄

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   あなたの責任ではありません

 私はいつの頃か、又誰から聞いた話だったか、忘れてしまったが

「宗教は、神の前で懺悔をすることから始まるものだ」

と聞かされた記憶があった。

 そこで五井先生のお暇な時、是非聞いて頂こうと思っていた。

或る日、来訪者も一区切りして、誰もいなかったので、個人指導のお部屋を覗いて

 “先生よろしいでしょうか”

と、お伺いした

 “ああ、斎藤さんか、さあ、どうぞ”

 “先生、宗教に入ったら先ず懺悔をすることから始るものだと聞いていましたが、私は随分色々な人生を渡り歩いてきた男です。青年時代は社会主義運動のグループに入り、人類救済はこれ以外にないと思い込み命懸けでやっていた時代もありました。

 けれど、共産党の大検挙の時、取調中に肺結核から腸結核になり、もう危ういとといわれ、不起訴で仮釈放となったのです。

 それから、社会主義運動は一応断念して、長いこと忘れていた親孝行と平行できる商売の道に入り、色々やりましたが失敗に失敗を重ね、内地を食いつめて遂に満州に渡りました。

 そして、菓子屋の配達小僧を振出しに、興信所、運送店その他を経て、どうにか三年目には、小さな運送店を開店したのです。それを契機として貿易商、電気工具メーカー、土木業その他五つの会社を経営するようになりましたが、戦争―敗戦―敵地より引揚となり混乱の内地へ帰って来たのです。

 当時、まだ幼い子供五人と妻を養わねばならぬ責任があり、戦後の混乱の中でまともな職にも有りつけず、闇商人の仲間に入り経済警察の厳しい取締りを潜って、あぶない橋を渡りながら生活費を稼ぎました。

 その内、友人の経営している金融会社に入り、金々々の金融マンになって金集めに奔走したものです。親類や友人の後援もあって、三億円近い金を集め、その会社の副社長に就任したのです。それからというものは、お客さんの接待役となり、料理屋、キャバレーなどへ出入りし、紅灯の巷をお客様の接待をいいことにして遊び廻ったものです。こんなことは厳密にいえば背任横領になると思います。“

 私の言葉を遮って、五井先生が

 “斎藤さん、そんなことをくよくよ思う必要はありません。それは皆んな、あなたの御先祖の責任である業をあなたが替わりに消してきたものです。あなたの責任ではありませんよ”

 悪いことをしたもにだと思っていたが、宗教的に見れば、それは私の責任ではなかったのだと思い返して気が楽になった。

 あとで知ったことであるが、私の積んできた業を、殆んど五井先生が背負って消して下さったのだということが分かって五井先生に申し訳なかったと慚愧にたえなかった。

 五井先生の所へきたら、懺悔などもういらないのであった。先生にお会いした時、先生は私の前生の又その前の前生までも凡てお見透しでいらっしゃるのだ。只知っているぞと言われれば、こちらの心が痛むので知らぬふりをなさっていらっしゃるのです。

 “私に会ったら、もう、大丈夫ですよ”

 と、常々皆に、おっしゃっている意味が、それから、三、四年して理解ができるようになった。

   凡て、あなたの責任です

 それから、数年が過ぎた或る日、私は昱修庵に行き、先生にお昼をご馳走になり、二階で雑談をしていた時、先生が

 “斎藤さん、この新聞の写真をよく見てご覧なさい。ここにベトナムの戦災孤児の収容所の写真が出ていますよ。骸骨のように痩せて、お腹だけが膨らんでいる子供たちの哀れな姿が沢山のっていますね。斎藤さん、このベトナムの惨憺たる姿は凡て、あなたの責任ですよね”

 私は、先生の意外なお言葉にびっくりして“先生、私はベトナムに武器を売込んだことも、全くありません”

 “斎藤さん、ほら、この三面記事をご覧なさい。宝塚の資産家中川家遺産あらそいで、弟が兄を殺して、自首したという記事が出ていますね。これも、あなたの責任ですよね”

 “先生、私は中川家とは何の関係もありません”

 “斎藤さん、世界平和の祈りとは、凡ての世界を創造された大宇宙神のみ心から発しているものである。と、いうことは御存じですね”

 “ハイ、そのように先生から教えて頂いております”

“世界平和の祈りは、あなたが祈る時は、肉体のあなたが祈るのでなく、守護神さん、守護霊さんが祈っているのです。ということも御存じですね”

 “ハイ、そのように。思っております”

 “私のお弟子達の守護神さん守護霊さんは誰でも、皆んなこの世に生まれてくる前から霊界にある”救世の大光明霊団“という、地球世界を救済する目的のもとに結成された大霊団に参加しているのです。そうした関係があり”救世の大光明霊団“の中心者である私の所へ守護神、守護霊さんにつれられてきて私のお弟子になったのです。この救世の大霊団は、神界にいらっしゃる大宇宙神のみ心を地球世界に実現するために結成されたものです。

 ですから、世界平和の祈りを祈るということは、その元の宇宙神の心の中心(大生命)へ帰ることです。そして、大宇宙を創造された責任者の心になって、宇宙全体を、その立場から見直すことになります。その責任者の心になって再び地球に帰えり、地球を見直し、日本人なれば日本に帰りその町々を、自分の家庭を、地球の責任者として見直すのが世界平和の祈りの真髄ですよ。ですから地球上に宇宙中に起きた凡ての事柄は、あなたの責任だという自覚が世界平和への道です“

 “先生、ありがとうございました。先生の教えて下さっている世界平和の祈りのスケールの大きさを初めて解らせて頂きました”(白光・昭和57年1月号より)

◎2019年11月10日富山練成会の資料からお許しを頂き掲載させて頂きました。(I)

 

世界平和の祈りの大きさ

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    皆さんの統一が上達したから、世界平和の祈りの大きさを一度見せてあげましょう、と五井先生がおっしゃり、私達は先生と共に出発した。

 ふと気づくと、地球の上に出ている。地球が目の下にボールのように見える。また一段上ると、円盤が見えた。空飛ぶ円盤だ、と私は思ったが、

「あれは円盤ではない、銀河系宇宙です」

と先生は教えて下さった。銀河系宇宙まで世界平和の祈りの働きはふくまれているのだ。というひびきを感じた。と瞬間アーッという間にまた上がった。すると一杯に星が見える 星だと思ったのが先生のご説明で、その星の一つ一つが島宇宙(銀河系宇宙もその一つ)だとわかった。宇宙は全く大きい。その時、

「この宇宙を、大神様はハッと思う瞬間に大宇宙のある個処で今まさに創造している。その息吹き、その力が、世界平和の祈りなのだ」と先生がおっしゃる。

 この祈りを私達は祈っているのだから、このまま大神様の働きの一部を、私達が働いているのだということと。

「地球は大宇宙の一員であって、地球が浄まらなければ宇宙は浄まらない。ということは人類の一人でも浄まってなければ地球は浄まったということにはならないということです。一人一人が浄まり全人類が浄まるのが世界平和の祈りなのですよ」

 ということを五井先生より教えられたのでした。

               (統一実修会より要点筆記)

※この内容は富山練成会の資料から、講師の方より許可を頂き掲載させて頂きました。(I)

「最後の審判について教えてください」(昭和30年代・五井先生ご法話)

富山ブログ

「最後の審判について教えてください」(昭和30年代・五井先生ご法話)

五井先生

幾つかの周期があって、その周期の最後に地球が大変貌する時があるのです。
今までの地球人類の生き方・考え方ではどうにもならなくなってしまう。

最後の審判は今なんです。

イエスさんが現れた頃からずーっと続いているのです。

その最後の審判の後に新しい人類が誕生する。

 

新しい人類が誕生するとは、みなさんが全部死んで入れ替わるというのでは

なくて、人類の宇宙観・人生観がまるっきり変ってしまう。
肉体波動が霊妙な波動に変る時代が必ず来る。

その前にどうしても「関門」を通らなくてはいけない。
それは今までの生き方を変えなくてはいけません。

 

キリスト教の人たちが解釈しているように、地球人類が全部または3分の2

滅びるのか、半分か、3分の1なのか、10分の1なのか、そういう滅び方が

なくてすむか、それはこれからの人間の生き方によって決まります。

 

それを指導するために私などは来ているのです。

最後の審判を大過なく災い少なく人類の損害少なく乗り切っていこうという

ために、いろんな聖者が出ている。
私には「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という祈りの方法と
「宇宙子波動生命物理学」という科学を神様が授けてくださったのです。

 

その運動、その研究が完成することによって地球人類は損傷少なく苦しみ

少なく最後の審判を乗り越えて新しい人類として生まれ変わるのです。
「祈りによる世界平和運動」は最後の審判を願わくば無傷で超えて行かせなくてはいけない、という運動なのです。

ですから、みなさんの一人一人の天命は重要なわけです。

◎令和元年8月25日、富山市における福瀬くに子氏講話会の資料からお許しを頂き掲載させて頂きました。(I)

 武力をもって世界平和達成は不可能 (世界人類が平和でありますように)

富山ブログ

★ 武力をもって世界平和達成は不可能

私の説いている平和の祈りは、肉体生命の死滅を恐れて説いているのではありません。個人、国家、人類を通して、すべての人々が永遠の生命を自己のものとして把握できる道が、世界平和の祈りの中から生れてくることを説いているのであります。

 

永遠の生命の道が、共産主義国を倒すことによって開くものなら、どんな武力をもってしても、それを成し遂げなければなりませんが、相対的な敵対行為によって得た道から永遠の生命を見出すことは到底できないところです。

 

何故ならば、相手がどのように悪い国であろうとも、敵として殺傷した場合には、

相手国の人々の心に憎悪の感情を植えつけてしまいます。

まして、相手の国は自国のほうが悪いなどとは思ってもいないで、かえって向って

くる国を悪い国としてみているのでありますから、よりその憎悪の感情は強いわけで、その憎悪の感情想念は、この地球界の波動を醜く汚してしまうのであります。

そして、自分たちを叩いた国家の人々の上にその憎悪の想念波動を叩きつけて

くるのです。

 

それは皆さんの中でも理解できない人があるでしょうが、その想念波動は、肉体があるなしにかかわらず、相手国の上に襲いかかってくるのです。ですから、武力によっての世界平和の達成ということは絶対にでき得ないことなのです。

世界平和はお互いの生命が真実に融合した時にできるのであって、生命を和合させぬ想念波動があっては、到底達成されないのです。

そこで私は世界平和のために武力をもつということは、この世では世界平和は達成されないと思っている人々の思想であって、それはもうすでに過去の時代の思想であることを人々に知らせたいのであります。

 

よく、強盗が襲ってくる気配があるのに、その防備をしないということがあるか、

国家もそれと同じことだ、というような言葉をききますが、強盗は強盗自身も

自己の行為を悪と是認しております。すべての人々が悪と思っております。

 

そういう相手を倒すのと、その国家のために忠誠を尽している人々を殺傷するのでは、全く意味が違うのでありますし、その戦いにおいて宇宙世界に及ぼす

不調和波動が非常に大きな悪い影響を地球世界にも他の星々にも与えるのであります。

 

そういう真理を知らない人々に、一日も早く、真理を知らせ、日本の真の理想と天命を知らせたいものであります。そのための世界平和の祈りであるのです。

個人がその職務を完うするために戦うことは是認せられても、国家がそうした個人の犠牲の上に、自国の権威を示そうとすることは、地球平和を乱す悪行為ということになるのであって、私どもはあくまで、日本国家をそうした方向に持っていってはいけないのであります。永遠の生命を人類に確立させ、世界完全平和達成の先達となるための働きを、私たち一人一人が心をこめてなしつづけなければなりません。

 

あらゆる国家民族というものは、お互いが他国と違った特徴をもち、天命をもって

いるのであって、その天命を各国が完うすることによって、この地球人類が一段と高次元の世界の住者となり得るのであります。

 

そのさきがけの世界平和の祈りであることを、皆さんどうぞ心に銘じていて下さい。

そして、日々の祈りに精進して下さい。やがては、皆さんの祈りに同調してくるが、日本中に満ちてくることでありましょう。

 

★ 暗黒思想を消滅させるもの

ところが、ここで問題になってくることは、やはり、世界制覇をめざして、着々と思想謀略を計っている国家や集団があることと、虚無主義的な破壊思想をもっている集団のあることなのです。

これらの国家や集団は、日本の労働争議や学校騒動などを牛耳り、あらゆる手段をもって、日本の現在の政治体制を根底からくつがえして、自国や自分たちの思想のままに、日本を操ろうとしているのであります。

 それは単なる共産主義者たちだけではなく、もっと奥深い暗黒思想なのです。

 

ですから表面に現われている共産主義者や、共産主義国を叩いたとしても、それでよいのではない、と私はいっているのです。

  こういう謀略をよく知っている憂国の人たちは、その謀略を防ごうとして必死に

なって活動しているのでありますが、現実的には、そういう謀略を受け入れ易い

状態が世界中にあり、日本にもありまして、現在の宇宙観や人生観では、とても

その侵略を防ぎ得るわけにはいかないのです。

そこで憂国の人たちは、心痛しながらも、そういう謀略があるのだ、日本の危機だ、世界の危機なのだと叫びつづけるだけで、どうにも具体的な手が打てずに切歯扼腕しているのであります。

そこでどうしても、国内防衛のためにも、外交政策のためにも、軍備を充実させねばならぬ、というように武力に頼る方向にその主張が向いていってしまうことになるのです。

 

私なども現実的な面だけをみている時には、その人たちの気持がよくわかるのですが、そういう主張がかえって、暗黒思想団体の謀略のうまい口実になり、

日本の右翼が日本を再び軍国主義にさせようとしている、というような喧伝をして、民衆は大体もう戦争にはこりごりしていますので、そういう喧伝にうまく乗ってしまい、日本の思想が分裂させられてしまうのです。

 

  このように、日本の思想が分裂していることが一番危険なことだと私は心配するのであります。日本の思想が分裂していることは、何かの拍子に火がつくと、内乱にまで発展しないとはいえないのです。

  暗黒思想の謀略は実に危険であり困ったものですが、これを抑えるのに軍備というのも、業因縁の流転でありまして、これではいつまでたっても日本の平和も世界の平和も成り立たない、と私は説いているのであります。

   ですから、どこからどこまで考えても、結論としては、神のみ心の大調和精神に

沿って、世界平和の祈りを根底にして、すべての行動としてゆかねばならぬという

ことになるのであります。

今日の世界では、今までのような神を離れた、小智才覚だけの生き方では、自分をも国をも人類をも守り得ないことが明らかになってきているのです。そのことを、つきつめて考えてみることが、人々にとって必要なのであります。

  共産主義をも、その底に暗躍している暗黒思想(こういう存在を知っている人はあまりいないのですが、一口にいうと、自我欲望のためなら、人を殺そうと、自国を売ろうと、他国を滅ぼそうと、如何なる卑劣な残酷な手段をもっても自己の欲望を達成するという、それでいて、表面の姿は立派な社会人であり、高位高官であったりする)をも消滅し得るのは、救済の大光明の光明波動よりないのです。

 

★ 純潔なる平和の祈りこそ真の力

先程から何度びも申しておりますように、表面に出ている共産主義者や共産国を、いくら武力で叩いても、この暗黒思想団体は武力で叩くことはできないのです。

何故かといえば、彼らの正体は実に巧妙に隠されていまして、どのようにしても、その正体を明らかにすることができないからなのであります。

 

 

この人類の中には、普通人の心ではとてもはかり知れないような存在があるの

でありまして、正しい良識者たちの頭で判断しただけでは、どうにもならない人物や事柄がたくさんあるのです。

こういう人類に必要でない存在を消滅せしめるのは、祈りの力より他にないのであります。武力でも金力でも作戦でもなく、祈りによって地球人類の上にひびきわたる、神の光明と、大調和科学による波動調整によるより他に方法はないのです。

 日本の運命を案じ、世界人類の滅亡を防ごうとして、各種の運動をしている、愛国者や人類愛に燃えている人々が、いても立ってもおられぬ気持で日々を送っておられるのはわかりますが、焦燥のあまり、武力に頼ろうとしてしまったら、暗黒思想者たちの思う壷であることに想いを至し、あくまで、徹底した平和主義を貫き通さねばなりません。

 それには、この小論文でくどくどと申しておりますように、この世の出来事の目にあまる事柄もすべて消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入し、平安の気持ちになって、日本人全員の気持を、完全平和達成の希望の道である、平和の祈りに統一してゆくことが何にもまして大事なのであります。

 

現在の日本は、天皇の下に帰一する心になることは悲しいながらできません。

 

そこでどうしても、人類全般の大願目である、世界平和を願う想い、一歩進めて、世界平和の祈りの中で、日本人の心を帰一させてゆかねはならぬのです。

一億人民の光明心こそ、世界人類すべてを大光明化する、唯一無二のものとなるのであります。これこそ、日本民族の天命であり、理想でもあるのです。

 

私どもは神の大愛を信じきっております。神の大愛が、心の底から平和を熱望する日本民族の悲願を受け入れないわけはありません。

 

この平和の心は純粋であって汚れがあってはなりません。

片手に武器をもった平和の祈りなどあるものではありません。

そうした純潔なる平和の祈りこそ、神の大愛を真直ぐにこの地球世界に及ぼし得る祈りなのであります。

私たちは身命を投げうって、この道を貫き通してゆきたいものであります。

 

(以上、「「日本の心」五井昌久著、白光真宏会出版局刊より転載)

 ◎令和元年8月25日、富山市における福瀬くに子氏講話会の資料からお許しお頂き掲載させて頂きました。(I)

ええところ (じぶんの よい ところ)

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 わたしって、ちからは よわいし、こえは ちいさいし、

はしるのも おそい。「ええところ」なんか

一つも ないって おもうねん。

 がっこうの かえりみち、

「わたしって ええところ 一つも ないなあ。」

って ともちゃんに いうたら、

「そんな こと ないよ。」

って、いうて くれた。けど、

「そんなら、わたしの ええところ おしえて。」

って いうたら、

「ええっと なあ、ううん・・・・。

 あしたまでに かんがえるわ。」

って いいながら、かえって いって しもた。

 つぎの ひの あさや。

「あったよ。あいちゃんの ええところ。」

そう いうと、ともちゃんは

わたしの てを にぎった。

「あいちゃんの て、すごく あったかい。

クラスでいちばんや。」

「てが あったかいのが、わたしの ええところ。」

「そうや。」

クラスの みんなが あつまって きて、わたしの てを にぎった。

(「てが あったかい」って、わたしの ええところなんや。)

わたしは、うれしく なった。

 その ひ、ぞうきんの あと、みずが つめたかったので、

ぞうきんがかりの こは みんな わたしの ところへ きた。

わたしは みんなの てが あったかく なるように、ひとりひとりつめたい てを、

りょうてで ぎゅっと にぎって あげた。

 さいごに ともちゃんが きた。わたしは ともちゃんの てを

「どう、あったかい。」

 わたしが きいたら、ともちゃんは、こまったような かおで いうた。

「ううん、あったかく ない。と いうか、つめたいねん。」

(どない しよう。あっというまに わたしの

ええところが なくなって しもた。)

わたしは、そっと ともちゃんの てを はなした。

うつむいたら、なみだが ぽたぽたと ゆかに おちた。

 そしたら、ともちゃんは、わたしの

てを ぎゅっと にぎって いうた。

「でも、じぶんの てが こんなに

つめたく なるのに、みんなの てを いっしょうけんめい

あたためて くれたやろ。みんなに やさしいのが、

あいちゃんの いちばん ええとこらや。」

 

 わたし きめたんや。わたしも ともちゃんみたいに、

ほかの この ええところを みつけて あげるねん。

いっぱい みつけて、いっぱい いうて あげるねん。

 

◎「小学校二年の道徳の教科書」から、神奈川県の内村真喜子様から提供して頂きました。
 内村様の大阪支部道場での講話会を聴かせて頂き、感動し「人の良い所を見つけて、その方にお伝え出来る自分をイメージして。」掲載のお願いをしました。(I)

「内村様の大阪支部道場での講話」

藤野先生添削 魯迅医学ノート(複写)

★ブログ

福井モノ語り


 『師弟の愛にじむ朱筆』

「私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもっとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとである」。中国を代表する思想家、魯迅(1881~1932年)は26年に書いた自伝的小説「藤野先生」で、あわら市出身の医師、藤野源九郎(1872~1945年)のことをこう記している。

 2人の交流で象徴的なのが医学ノートの添削だ。魯迅が仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に入学した際、藤野が解剖学の講義を担当。日本語やドイツ語と図がびっしりと書かれた講義ノートを、単なる医学的誤りだけでなく日本語の使い方に至るまで朱筆で一つ一つ細かく指摘している。藤野は受け持つ講義が終わるまで添削を続けた上に、日常生活の便宜も図ったという。

 魯迅が留学時に筆記したノートは脈管学、解剖学など計6冊あり、魯迅の故郷である紹興市で見つかった。中国の国家一級文物(国宝)に指定されている。この脈管学の複写本が、2006年に同博物館からあわら市に寄贈され、同市藤野源九郎記念館に展示されている。

 日清戦争で清が敗れ、日本では中国人をさげすむ風潮があったとされる当時も、藤野は親身になって面倒を見続けた。2人の師弟愛は、現代の日中友好の礎になっている。(黒田美沙)

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2019年(令和元年)5月6日(月曜日)福井新聞から。
◎当時無名の苦学生のことを気にかけられて、面倒を見られた真心が、今、日中の友好の礎になっている。その真心を見習いたい。「世界人類が平和でありますように」(I)

「書きのこすこと」 (3~7)  伊藤 顕

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OLYMPUS DIGITAL CAMERA顕伊藤

3、神様に書き損じはないよ

  お浄めの当番で、私が旧東京道場にまいりました時、永安さんから色紙を二枚あずかったことがありました。
 五井先生のお祈りの言葉の色紙がまだ無い頃でしたので、「世界人類が平和でありますように」」と先生に書いていただきたいと、私が市川に住んでおりましたので、頼まれたのでした。
 大変光栄なお役目ですので、喜んで当時の会長室に、五井先生をお尋ねいたしました。そして、先生に色紙をお渡しいたしますと、「二枚あるけどなーに?」とおっしゃられたのです。「何かの時に役立つから、二枚入れておきます」と、永安さんから言われたのですが、五井先生には「もしもの場合です」などとはとても申せませんので、お答えにつまっておりました。すると、「そうか、分かった。じゃあ、出来たら連絡するから」と、先生が言われました。
 そして、二、三日いたしますと、先生から「伊藤さん、出来たから取りにいらっしゃい」と、ご連絡がございましたので、いそいそと出かけて行きました。
 玄関でお待ちしておりますと、取次ぎの藤井さんが、出来上がった二枚の色紙を持ってこられまして、「一枚は世界平和の祈りですよ。そしてもう一枚は、いろいろな意味であなたにあげるって、五井先生が書いてくださいましたよ」と私にくださったのです。
 それには「誠意・昌久」と書かれてございました。私は思いもかけない賜物に「そうですか、ありがとうございます」と満面の笑みでいただきますと、藤井さんが、
 「伊藤さん!五井先生がおっしゃっておられましたよ。『神様に書き損じは無いよ』ということを伝えなさい、と」・・・私は平身低頭その二枚の色紙を押し戴いて、引き下がってまいりました。
 その色紙は今も大切に家に飾っておりますが、それを拝見する度に、五井先生の暖かいお心と、神様はすべてのすべて完璧なんだという五井先生のお言葉がひびいてまいります。

 4、皆さんの祈りがすばらしい

 五井先生のお浄め部屋には、五井先生が自叙伝に書かれていますような「掖明(よあけ)観音像」が床の間に横に置かれてありました。
 初めのうちは普通の観音様のお像だと思っていましたが、それが、白光誌に「天と地をつなぐ者」が掲載されてから、それが「掖明観音像」だと分かると、お浄めにこられるほとんどの方が、まずその観音像に手をあわせてから、五井先生のお浄めをお受けになっていました。後から来る人も順々に。前の人にならってゆかれるので、自分の順番になったときに、私も「素晴らしい観音様ですね」と申し上げました。そういたしますと、先生はニコニコされて私をご覧になられ、「あなたの祈りが素晴らしいよ」と強いひびきでおっしゃられました。深い意味を含んだそのお言葉は、今も私の心に響いています。
 それは、形に現れたものも勿論大切だが、それよりもなお、神さまそのものが、いつでもどこでも印を組み、世界平和の祈りを祈っているわたしたちの素晴らしさというものを教えていただいたのです。 ”人身得難し”といわれますように、肉体身をもって世界平和を祈り、「我即神也」「人類即神也」の印を組ませていただいている私たちの有り難さを強く思わせていただきました。

 5、「神と人間は、浄まるご本」

 毎日たくさんのお浄めとご相談されていた五井先生は、そのお忙しい合間合間に、ご自身で赤エンピツをもたれ「神と人間」出版のための校正をしていらっしゃいました。
 そして、昭和二十八年五月に、ご本が出来上がりますと先生は、「この本はまだ一度もこの世界に現れたことのない内容の本ですよ」と言われました。
 今も拝読する度に私は、神さまが初めて地球世界に宇宙の真理、人間の真実の生き方を、神我一体になられた五井先生によって、日本語で書き降ろされた真理の書であることが深くひびいてまいります。
 今、その時五井先生からいただいた初版本を開けてみますと、六十数年の年月で紙は各頁とも茶色になっていますが、何回もお経のように毎日読ませていただいたのに、赤線など引いた箇所が一つもないのに驚いています。
 この「神と人間」の中の一言一言が本当に大切なお言葉ですので、私の性格でしたら、もうたくさんの赤線を引いていて当然ですのに、一つも赤ラインを引かずに読ませていただいたのは、ご本をいただいたときの直感で、この「神と人間」というご本は、ライン引き出したら全部引くよううになってしまうご本である、と感じられたからだと思います。
 私はその頃は、家に帰ってご飯を炊き上げるまでの二十分間程が、私にとって一番ゆったりとした一刻でしたので、「神と人間」をガス台の上に立てかけて、合掌しながら読み続けておりました。
 ある日、そのことを五井先生に申し上げますと、「それは、浄まりますね。本を合掌する心で読まれると浄まりますよ」とおっしゃってくださいました。そして浄めというのは、五井先生の前に座らせていただく時だけだでなく、真理の書を心をこめて拝読するときにも、神さまからのお浄めをいただけるのだと教えていただきました。
 特に、第七章の「私の祈念法」の中の「神さま、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給え。とその祈りを毎日欠かさず続けていることは、細かい種々な願い事をする神詣で、仏参りをするより、はるかに、はるかに、その人を高い境地に、導いてくれるものである定まった一時のの祈りよりも、常に常に心に抱いた想念の方が、よほど効果があるものである」というお言葉は、私の人生を導いてくださる大きな「道しるべ」となりました。

 6、 五井先生の救世主宣言

イエスキリスト、金星の長老、弥勒如来、釈迦牟尼仏、老子の五聖者、五井先生と合体さる

 昭和三十七年三月十一日、聖ヶ丘道統一実修会で、皆さんの前で、五井先生は「我は世の光りなり」とはっきりと救世主宣言をなさいました。会場に集まった人々は感激して、人類救済の運動に心身を捧げることを心の中で誓ったのでした。(白光誌昭和37年4月号76頁)

 

 7、 これから本当の人間を育てる (五井先生ご法話・白光誌昭和37年5月号より)

 これから肉体の人間のご機嫌などをとることを一切私は止めますよ。そんなことして何になるか、只その人の本心が開くために、その人が本当の人間になるために、本当に神の子の姿を現すために、私は懸命に努力しますよ。そのためには甘やかした方がいい時には甘やかすかもしれない。グチを聞いてあげる方がその人の魂が開く場合には、ああそうかね、と聞くかもしれない。しかしそうでない場合には、このバカヤロー、と怒鳴りつけちゃいますよ。そういうようになりました。だからこわいんだか、優しいんだか、自分自身にもわからない。こわい時にはうんとこわいし、優しい時にはうんと優しい。それがいいんです。今までみんなが本当に消えてゆく姿で平和の祈り、という道をつけ、開いて、そして今度はその道の中に入ってきた。相当に出来て来たから、幹部のいゆる古い人達はもう消えてゆく姿さえもいらないのだからね。とたんに空にならなければ駄目。パッと空になるような修業をしなければならないと思うのです。

 そこで私は幹部の再教育をしたいと思っています。ビシビシと尻をひっぱたいて(笑)鍛え直そうと思っている。今までは、たががゆるんでいた。だから鍛え直して本当の人間にしようと思っている。どこの宗教家が見ても、唯物論者がみても、どこから見ても、ああ五井先生のお弟子は立派だなあ、といわれる人間にしようとおもっている。ああでもない、こうでもない。なまこのような、なめくじのようなフニャフニャしたものは、いたってしょうがない。みんな叩き直そうと思っているのです。覚悟はよいか(笑)ってなるんじゃないかな(拍手)
 愛するということは、その人の本当のいいものを、いい持ち味出さなければ、愛することにならないんですね。その人の愚痴を聞き、業想念を聞いて、ヘイヘイいっていたんじゃそれは愛することではなくて、弱虫ということです。だからその人の長所、持ち味をズバリと出すように、私はこれからやることにしました。そうすればみんな立派になります。怒鳴りつけるときは怒鳴りつける、優しくするときには優しくしますから、どうぞそのおつもりで、みんな張り切って下さい。

 皆さんが真祈りの中心であり先達
   
 いいですか、皆さんが世界人類を救うのですよ。肝に銘じて下さい。世界平和の真祈りの中心なんですよ。自分たちが救われるんじゃなくて、自分たちが救いに立つのです。皆さんの過去世をみれば、みんな相当なものです。それなのに、この世の垢や塵がついてヘナヘナなんかしたのだのだけれども、実はヘナヘナした人間など一人もいないのです。みんな神の子なのです。みんな前生において、修業に修業を積んだ人間が集まっているのです。それでなければこの祈りのことがわからないんですよ。五井先生がわからない。少しでもわかるということは、過去世において修業を積んだ賜物なんですね。修業をなにも積まない人間は、唯物論者のようになって、神がいないとか、霊がいないとか、くだらないことをいってのさばっているんですよ。少しでも修業を積むと神さまがわかるし、霊のこともわかるのです。
 だから皆さんは幸せな人達です。世界人類を本当に救うための第一歩を踏み出す時に、五井先生と共に手をつないで、世界平和の祈りが出来るということはなんたる幸せよ、と老子はいうのである。

 生きるということは厳しいもの

 皆さん子供を育てるのでも、只叱ってはいけませんよ。本当うにその子を愛して、それで叱りなさい。叱って死んでもいいんだ。そんななまくらで生きているのなら、死んでもう一遍霊界でやりなおして、肉体に生まれ更ってこい。そういうつもりで子供の教育をしなさい。そしたらその気迫に打たれて子供もしゃんと直るから。
 なまくらで五十年七十年生きたって何にもならないんですよ。それは死んでいるのと同じ。生きているというのは、生命がピンピン生きていること、生命が光り輝いて、それで生活していることであって、ぐだぐだしているのは死んでいるのと同じだから、いっそのこと、パッサリ死んだ方がいい。そうすればやり直しがきくから。なまくらに生きているからやり直しがきかない。死んでいるのと同じような生き方ををするなら、一遍死に切っちゃって、もう一遍生れ更った方がいいのです。
 生きるということはそれ程厳しいことなんですよ。今まで皆さんはそういう話を五井先生から聞かなかった。しかし生きるということはきびしく、一分一秒もゆるがせに出来ない。その厳しさに耐えて、自分を見つめて自分を鍛え上げてゆくことこそ、魂の本懐であるし、本心開発の一番の近道です。
 それを五井先生は消えてゆく姿で世界平和の祈りというやさしい教えにして導いて、今日まできたのです。それで今日からは消えてゆく姿に世界平和の祈りを含めた中に、少しピリッと芥子をきかせてご指導いたしますからね。(中略)

 皆さんの運命は私が引き受けた!

 この世からあの世まで全部引き受けます。
必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念でやりなさい。
 私が引き受けた、私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。どうぞそのおつもりで。(以上)

(私の感想)
                                             高橋英雄
 伊藤顕シニアーメンバーの「書きのこすこと」は好評である。今回の五井先生にまつわるエピソードも、皆さんに新鮮にうつることだろう。
 昭和37年5月号よりのご法話、幹部の再教育をする、鍛え直す、とおっしゃるが、そのきびしさがどのようなものであったか、私には記憶がない。
 基本的に先生の人柄である優しさに変化はなかった。だが先生の内部で優しい愛ときびしい愛と使いわけられるようになったことは確かであろう。先生の基本は神への全託である。全託というのは「優しい」で限定されるのではなく、神の御心によって「厳しさ」も自在に生まれてくるということである。しかし根本は優しさにある、と思う。
 世を救い、人を救うのは強さではなくして、優しさである。その優しさのきわみ慈愛が、人のため世のために命を投げ出すのだ。そしてその慈愛の心は、永遠に人々の心に残り、伝わってゆく。

(五井先生研究 No。167から)

※高橋英雄様、伊藤顕様のお許しを頂きこの「書きのこすこと」を、「五井先生研究」から転載させて頂きました。

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