白光真宏会-北陸

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「私の一冊」小説 阿難(白光図書より) S・N

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このご著書を拝読するたびに感動するのは三つ要素のことと存じます。

 ① 登場人物の心理描写を深める際立った自然描写、そこから醸しだされる抒情性。

 ② いつの時代にあっても変わらぬ人間の愛の種々相、愛することの哀しみから愛しみへの  昇華のドラマ。

 ③ 全編んをつらぬく絶対の光明思想。大慈悲心、大慈愛。

今回は絶対の光明思想について、書いてみたいと存じます。

 ある集会場に出講した時のことでした。一人の青年から本書第二部の「提婆の最後」

の、あの含みの多いシーン“提婆は菩薩として我らを導きつづけてゆくのである”という釈尊の言葉について、質問を受けたのでした。最低地獄に落ちていった提婆がどうして菩薩なのか…?、誰もが疑念を抱く箇所です。

 私は、それまで学んだことを踏まえて精一杯お答えいたしました。しかし何かスッキリしないものが残っておりました。あの答えで間違いなかっただろうか、と気になりましたので、思い切って五井先生にお伺いすることとし、高橋編集長(当時)にそれを託しました。

 高橋編集長より頂戴したお手紙には次のような五井先生のお言葉が記されていました。

「人間本来みな仏である。それ以外のものはみな消えてゆく姿であり、消えてゆくのだ。提婆の場合も、悪いことはみんな消えてしまっているのだ」

私はいささか拍子抜けいたしました。もっと詳細なご解説をいただけるものと考えていたからです私のこの反応を予期されたのでしょう。高橋編集長は次のように付記してくださいました。

「……とすると、残るのは本心である提婆のみとなります。お釈迦さまの目には、過去世の業因縁の影である提婆は映っておらず、映っても前を通り過ぎる雲にすぎず、本来の姿である仏子提婆のみが映っていたのであろうと思います」

 あれから十年以上になりますが、このお言葉が了解(りょうげ)できたわけでわありません。この箇所こそみ教えの核心であると思うのですが、頭脳作業ではその核心に触れることはできないと、つくづく思わされます。

 「まだ、わからぬと見える。業生はみな消えてゆく姿である。実在するものは仏性のみである。この理がわからぬうちは、み仏の真の姿がわかりようがないのである」と、神界の五井先生が仰っておられるでしょう。

 阿難尊者のように「み教え、心にしみてわかりました。迷い心、全く消え去りましてございます」と、お応え申しあげられる日が、いつか私にも到来するのでしょう。

(白光図書読書感想文「私の一冊」より)

◎2019年11月10日の富山練成会の資料からお許しを頂き掲載させて頂きました。(I)

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