白光真宏会-北陸

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「書きのこすこと」 (3~7)  伊藤 顕

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3、神様に書き損じはないよ

  お浄めの当番で、私が旧東京道場にまいりました時、永安さんから色紙を二枚あずかったことがありました。
 五井先生のお祈りの言葉の色紙がまだ無い頃でしたので、「世界人類が平和でありますように」」と先生に書いていただきたいと、私が市川に住んでおりましたので、頼まれたのでした。
 大変光栄なお役目ですので、喜んで当時の会長室に、五井先生をお尋ねいたしました。そして、先生に色紙をお渡しいたしますと、「二枚あるけどなーに?」とおっしゃられたのです。「何かの時に役立つから、二枚入れておきます」と、永安さんから言われたのですが、五井先生には「もしもの場合です」などとはとても申せませんので、お答えにつまっておりました。すると、「そうか、分かった。じゃあ、出来たら連絡するから」と、先生が言われました。
 そして、二、三日いたしますと、先生から「伊藤さん、出来たから取りにいらっしゃい」と、ご連絡がございましたので、いそいそと出かけて行きました。
 玄関でお待ちしておりますと、取次ぎの藤井さんが、出来上がった二枚の色紙を持ってこられまして、「一枚は世界平和の祈りですよ。そしてもう一枚は、いろいろな意味であなたにあげるって、五井先生が書いてくださいましたよ」と私にくださったのです。
 それには「誠意・昌久」と書かれてございました。私は思いもかけない賜物に「そうですか、ありがとうございます」と満面の笑みでいただきますと、藤井さんが、
 「伊藤さん!五井先生がおっしゃっておられましたよ。『神様に書き損じは無いよ』ということを伝えなさい、と」・・・私は平身低頭その二枚の色紙を押し戴いて、引き下がってまいりました。
 その色紙は今も大切に家に飾っておりますが、それを拝見する度に、五井先生の暖かいお心と、神様はすべてのすべて完璧なんだという五井先生のお言葉がひびいてまいります。

 4、皆さんの祈りがすばらしい

 五井先生のお浄め部屋には、五井先生が自叙伝に書かれていますような「掖明(よあけ)観音像」が床の間に横に置かれてありました。
 初めのうちは普通の観音様のお像だと思っていましたが、それが、白光誌に「天と地をつなぐ者」が掲載されてから、それが「掖明観音像」だと分かると、お浄めにこられるほとんどの方が、まずその観音像に手をあわせてから、五井先生のお浄めをお受けになっていました。後から来る人も順々に。前の人にならってゆかれるので、自分の順番になったときに、私も「素晴らしい観音様ですね」と申し上げました。そういたしますと、先生はニコニコされて私をご覧になられ、「あなたの祈りが素晴らしいよ」と強いひびきでおっしゃられました。深い意味を含んだそのお言葉は、今も私の心に響いています。
 それは、形に現れたものも勿論大切だが、それよりもなお、神さまそのものが、いつでもどこでも印を組み、世界平和の祈りを祈っているわたしたちの素晴らしさというものを教えていただいたのです。 ”人身得難し”といわれますように、肉体身をもって世界平和を祈り、「我即神也」「人類即神也」の印を組ませていただいている私たちの有り難さを強く思わせていただきました。

 5、「神と人間は、浄まるご本」

 毎日たくさんのお浄めとご相談されていた五井先生は、そのお忙しい合間合間に、ご自身で赤エンピツをもたれ「神と人間」出版のための校正をしていらっしゃいました。
 そして、昭和二十八年五月に、ご本が出来上がりますと先生は、「この本はまだ一度もこの世界に現れたことのない内容の本ですよ」と言われました。
 今も拝読する度に私は、神さまが初めて地球世界に宇宙の真理、人間の真実の生き方を、神我一体になられた五井先生によって、日本語で書き降ろされた真理の書であることが深くひびいてまいります。
 今、その時五井先生からいただいた初版本を開けてみますと、六十数年の年月で紙は各頁とも茶色になっていますが、何回もお経のように毎日読ませていただいたのに、赤線など引いた箇所が一つもないのに驚いています。
 この「神と人間」の中の一言一言が本当に大切なお言葉ですので、私の性格でしたら、もうたくさんの赤線を引いていて当然ですのに、一つも赤ラインを引かずに読ませていただいたのは、ご本をいただいたときの直感で、この「神と人間」というご本は、ライン引き出したら全部引くよううになってしまうご本である、と感じられたからだと思います。
 私はその頃は、家に帰ってご飯を炊き上げるまでの二十分間程が、私にとって一番ゆったりとした一刻でしたので、「神と人間」をガス台の上に立てかけて、合掌しながら読み続けておりました。
 ある日、そのことを五井先生に申し上げますと、「それは、浄まりますね。本を合掌する心で読まれると浄まりますよ」とおっしゃってくださいました。そして浄めというのは、五井先生の前に座らせていただく時だけだでなく、真理の書を心をこめて拝読するときにも、神さまからのお浄めをいただけるのだと教えていただきました。
 特に、第七章の「私の祈念法」の中の「神さま、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給え。とその祈りを毎日欠かさず続けていることは、細かい種々な願い事をする神詣で、仏参りをするより、はるかに、はるかに、その人を高い境地に、導いてくれるものである定まった一時のの祈りよりも、常に常に心に抱いた想念の方が、よほど効果があるものである」というお言葉は、私の人生を導いてくださる大きな「道しるべ」となりました。

 6、 五井先生の救世主宣言

イエスキリスト、金星の長老、弥勒如来、釈迦牟尼仏、老子の五聖者、五井先生と合体さる

 昭和三十七年三月十一日、聖ヶ丘道統一実修会で、皆さんの前で、五井先生は「我は世の光りなり」とはっきりと救世主宣言をなさいました。会場に集まった人々は感激して、人類救済の運動に心身を捧げることを心の中で誓ったのでした。(白光誌昭和37年4月号76頁)

 

 7、 これから本当の人間を育てる (五井先生ご法話・白光誌昭和37年5月号より)

 これから肉体の人間のご機嫌などをとることを一切私は止めますよ。そんなことして何になるか、只その人の本心が開くために、その人が本当の人間になるために、本当に神の子の姿を現すために、私は懸命に努力しますよ。そのためには甘やかした方がいい時には甘やかすかもしれない。グチを聞いてあげる方がその人の魂が開く場合には、ああそうかね、と聞くかもしれない。しかしそうでない場合には、このバカヤロー、と怒鳴りつけちゃいますよ。そういうようになりました。だからこわいんだか、優しいんだか、自分自身にもわからない。こわい時にはうんとこわいし、優しい時にはうんと優しい。それがいいんです。今までみんなが本当に消えてゆく姿で平和の祈り、という道をつけ、開いて、そして今度はその道の中に入ってきた。相当に出来て来たから、幹部のいゆる古い人達はもう消えてゆく姿さえもいらないのだからね。とたんに空にならなければ駄目。パッと空になるような修業をしなければならないと思うのです。

 そこで私は幹部の再教育をしたいと思っています。ビシビシと尻をひっぱたいて(笑)鍛え直そうと思っている。今までは、たががゆるんでいた。だから鍛え直して本当の人間にしようと思っている。どこの宗教家が見ても、唯物論者がみても、どこから見ても、ああ五井先生のお弟子は立派だなあ、といわれる人間にしようとおもっている。ああでもない、こうでもない。なまこのような、なめくじのようなフニャフニャしたものは、いたってしょうがない。みんな叩き直そうと思っているのです。覚悟はよいか(笑)ってなるんじゃないかな(拍手)
 愛するということは、その人の本当のいいものを、いい持ち味出さなければ、愛することにならないんですね。その人の愚痴を聞き、業想念を聞いて、ヘイヘイいっていたんじゃそれは愛することではなくて、弱虫ということです。だからその人の長所、持ち味をズバリと出すように、私はこれからやることにしました。そうすればみんな立派になります。怒鳴りつけるときは怒鳴りつける、優しくするときには優しくしますから、どうぞそのおつもりで、みんな張り切って下さい。

 皆さんが真祈りの中心であり先達
   
 いいですか、皆さんが世界人類を救うのですよ。肝に銘じて下さい。世界平和の真祈りの中心なんですよ。自分たちが救われるんじゃなくて、自分たちが救いに立つのです。皆さんの過去世をみれば、みんな相当なものです。それなのに、この世の垢や塵がついてヘナヘナなんかしたのだのだけれども、実はヘナヘナした人間など一人もいないのです。みんな神の子なのです。みんな前生において、修業に修業を積んだ人間が集まっているのです。それでなければこの祈りのことがわからないんですよ。五井先生がわからない。少しでもわかるということは、過去世において修業を積んだ賜物なんですね。修業をなにも積まない人間は、唯物論者のようになって、神がいないとか、霊がいないとか、くだらないことをいってのさばっているんですよ。少しでも修業を積むと神さまがわかるし、霊のこともわかるのです。
 だから皆さんは幸せな人達です。世界人類を本当に救うための第一歩を踏み出す時に、五井先生と共に手をつないで、世界平和の祈りが出来るということはなんたる幸せよ、と老子はいうのである。

 生きるということは厳しいもの

 皆さん子供を育てるのでも、只叱ってはいけませんよ。本当うにその子を愛して、それで叱りなさい。叱って死んでもいいんだ。そんななまくらで生きているのなら、死んでもう一遍霊界でやりなおして、肉体に生まれ更ってこい。そういうつもりで子供の教育をしなさい。そしたらその気迫に打たれて子供もしゃんと直るから。
 なまくらで五十年七十年生きたって何にもならないんですよ。それは死んでいるのと同じ。生きているというのは、生命がピンピン生きていること、生命が光り輝いて、それで生活していることであって、ぐだぐだしているのは死んでいるのと同じだから、いっそのこと、パッサリ死んだ方がいい。そうすればやり直しがきくから。なまくらに生きているからやり直しがきかない。死んでいるのと同じような生き方ををするなら、一遍死に切っちゃって、もう一遍生れ更った方がいいのです。
 生きるということはそれ程厳しいことなんですよ。今まで皆さんはそういう話を五井先生から聞かなかった。しかし生きるということはきびしく、一分一秒もゆるがせに出来ない。その厳しさに耐えて、自分を見つめて自分を鍛え上げてゆくことこそ、魂の本懐であるし、本心開発の一番の近道です。
 それを五井先生は消えてゆく姿で世界平和の祈りというやさしい教えにして導いて、今日まできたのです。それで今日からは消えてゆく姿に世界平和の祈りを含めた中に、少しピリッと芥子をきかせてご指導いたしますからね。(中略)

 皆さんの運命は私が引き受けた!

 この世からあの世まで全部引き受けます。
必ず永遠の生命が光り輝くように私が引き受けるから、皆さんは世界平和の祈り一念でやりなさい。
 私が引き受けた、私というのは全部の神々が入っている私ですよ。いいですね。どうぞそのおつもりで。(以上)

(私の感想)
                                             高橋英雄
 伊藤顕シニアーメンバーの「書きのこすこと」は好評である。今回の五井先生にまつわるエピソードも、皆さんに新鮮にうつることだろう。
 昭和37年5月号よりのご法話、幹部の再教育をする、鍛え直す、とおっしゃるが、そのきびしさがどのようなものであったか、私には記憶がない。
 基本的に先生の人柄である優しさに変化はなかった。だが先生の内部で優しい愛ときびしい愛と使いわけられるようになったことは確かであろう。先生の基本は神への全託である。全託というのは「優しい」で限定されるのではなく、神の御心によって「厳しさ」も自在に生まれてくるということである。しかし根本は優しさにある、と思う。
 世を救い、人を救うのは強さではなくして、優しさである。その優しさのきわみ慈愛が、人のため世のために命を投げ出すのだ。そしてその慈愛の心は、永遠に人々の心に残り、伝わってゆく。

(五井先生研究 No。167から)

※高橋英雄様、伊藤顕様のお許しを頂きこの「書きのこすこと」を、「五井先生研究」から転載させて頂きました。

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