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あの切なさが人生には必要なのだ。 (欽ちゃんの初恋) :みやざき中央新聞から

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   (前文略) 昨年、萩本欽一さんのプライベートな秘話をドラマ化した『欽ちゃんの初恋』をBSテレビで観た。
 1970年代、欽ちゃんは国民的スターに躍り出た。子どもからお年寄りまで
、家族みんなが一緒に笑って見ていられる「お茶の間のアイドル」になった。スキャンダルといったものから一番遠い芸能人が欽ちゃんだった。
 だから欽ちゃんは苦悩していた。自分には恋人がいて、しかも相手はストリップ劇場の元ダンサーで
、既に子どもまでいる。それを1年以上も隠していた。もしマスコミにバレたらスキャンダル扱いされ、ファンからは「裏切られた」とそっぽを向かれる。そして芸能界にいられなくなると恐れていた。
 欽ちゃんと出会った頃のみゆき姉さんはフランス座のトップダンサーだった。先輩芸能人にお茶を運んだり、楽屋の掃除をしていた欽ちゃんにとって彼女は憧れのスター、高嶺の花だった。
 ところが、健気に働く欽ちゃんが、みゆき姉さんの目に留まった。彼女は、うだつの上らない欽ちゃんにご飯をおごってあげたり、お小遣いを渡したり、弟のようにかわいがった。挙句の果てに欽ちゃんの安アパートに転がり込み、寝泊まりするようになった。
 やがて欽ちゃんは「コント55号」で大ブレイクし、時代の寵児になった。
 そんな時、週刊誌に「萩本欽一、浅草のダンサーと同棲」とスプークされた。それを読んだみゆき姉さんは姿を消した。
 数年後、テレビで活躍するその合間を縫って。欽ちゃんは夜の店で働く彼女を探し出した。「僕はあなたがいたから頑張れたんだ。なぜいなくなったの?」と泣きじゃくる欽ちゃんに、みゆき姉さんは言った。「あなたが『欽ちゃん』だから。またマスコミにかぎつけられるよ」 「僕はあなたを幸せにしたい。僕があなたにしてあげられることは何?」
 しばらく考えて彼女は言った。「強いて挙げるなら子どもかな。あなたの子どもがいれば、親子2人幸せに生きていける」
 その後、また彼女はまた姿を消した。欽ちゃんに電話が掛かってきたのは1年ほど経った頃だった。「子どもが生まれた。名前を付けて」と言われ。驚いた。妊娠したことすら知らなかったからだ。

 欽ちゃんは、「週刊誌から叩かれてもいい。芸能界にいられなくなったら辞めたっていい」と決心して記者会見を開いた。「実はね、ボク結婚してました。子どももいまーす」と、欽ちゃんらしくおどけた。
 偶然テレビを見ていたみゆき姉さん、「あれ?私のことを言っている」と気付き、そのプロポーズに一筋の涙を流した。
 そして週刊誌は好意的に報道し、ファンは欽ちゃんを祝福した。
 同棲して別れ、再会して子どもをつくってまた別れ、また再会してやっとゴールイン。13年もかかった。「勢い」なんてなかった。切なさだけの恋だった。
 いつの時代も人は誰かを好きになると切なくなる。あの切なさが恋をドラマチックな物語にしていくのだろう。
 恋は少し古典的なほうが、味があっていい。

(2017年2月13日 みやざき中央新聞社説から)

 この話しは下関の中野利夫さんからの提供です。そして下記は中野さんと欽ちゃんの感動の思い出です。 
 「昔タクシーの運転手をしていた時、萩本欽一さんがNHKの職員さんと一緒に乗ってこられました。話していて、私が「萩本さん、ウチの会社、倒産して、他の会社に買収されるんですよ」と少々情けない口調で言うと、とても前向きな言葉で励まして下さいました。ピースドールを差し出すと、「僕はこういうの(宗教)は信じないんだよ」と言われましたが、チャンと受け取って下さいました。北九州空港で降りられる時、お願いすると、通行料金の小さなレシートの裏に「世界人類が平和でありますように」を3行に分けて書いて下さり、笑顔で降りて行かれました。
・・・・萩本欽一様即神也・・・・神性復活大成就・・・・・・・
・・・・人類即神也・・・・・・・・・・神性復活大成就・・・・・・・

真実に生きる。(真実に生きる 自分の言葉と歩む天皇):月刊新聞「世界平和の祈り」より

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 四月の朝日新聞に憲法学者の蜷川恒正・日本大学教授が「真実に生きる 自らの言葉と歩む天皇」という文章を寄せている。その中で蜷川氏は、天皇陛下が2013年10月27日、熊本県水俣市を初めて訪れ、水俣患者の話を聞いたあとに述べたお言葉を紹介している。
 「やはり真実に生きるということができる社会をみんなで作っていきたいものだと改めて思いました」「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく。そうなればと思っています。みながその方に向かって進んでいけることを願っています」
 天皇陛下は通常、行事で述べる「お言葉」は、各方面に配慮して事前に作成なさるが、蜷川氏は、これは「事前に用意された「おことば」ではない。天皇が返礼に自らの思いを述べるのは異例である」と述べている。
 水俣病は196年に発見された公害病である。その原因物質が新日本窒素肥料の工場から排出された水銀であることは、当初から疑われていたが、それが科学的にも確認されたのは1967年であった。原因が解明されなかったので、患者は肉体的に苦しむだけでなく、社会的な差別もうけた。企業や国はなかなか責任を認めず、被害者への補償と救済が遅れたが、2004年に最高裁が企業と国の責任を認めた。しかし、水俣病患者と認定されなかった人々の不満は残っているし、患者や水俣出身者への差別もいまだ続いているという。
 陛下のお言葉の中には、今の日本社会は「真実に生きるということ」「自分が正しくあること」が困難な社会である、というニュアンスが含まれているように感じられる。
 たしかに、国や大企業が公害の責任を嘘と言い逃れてごまかすのは、真実に生きることではないだろう。また、病気や障害を背負った人々が、差別や偏見の目にさらされていては、自分が自分として正しく生きることも困難であろう。
 蜷川氏は「『真実に生きる』とは、あるべき自分の生き方に忠実に生きることであり、それを天皇は、すべての個人に励まし、それができる社会へと向かう努力を自他に求めたのである」と述べている。
 このお言葉はまた、陛下ご自身へのいましめでもあろう。陛下ほど日本国憲法に忠実で、誠実な生き方を追求なさった方はおられない。陛下は常に災害の被害者、傷害を抱えた人々に寄り添い、励まし、国民のすべての幸福を祈ってこられた。毎年10月には水俣に思いをお寄せしているという。それが「象徴天皇」としての首尾一貫した歩みであった。老齢によって、そのありか方が困難になったとお感じになられての退位のご意向であると拝察申し上げる。
 陛下のお言葉が尊重されることを心から願う次第である。       (N)

月刊新聞「世界平和の祈り」平成29年7月号エッセイより

 

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