五井昌久先生(空独尊)ご法話 「独り在るだけ」 1962年(昭和37年)4月14日(日)
「独り在るだけ」
1962年(昭和37年)4月14日(日) 五井昌久[空独尊昌久如来」
( 一 )
あの世は在るかという事ですね。では、それについて答えましょうね。
本当は自分の想いが自分の世界をつくるのだから、実際のところは、肉体界も幽界も霊界すらもないのです。では何があるかというと、自分の心から出した自分の想念の世界があるだけなのですね。
私の云う「心」というのは、本心や神霊のひびきということでして、その本心からのひびきのエネルギーを使って、肉体(こちら)の自分が勝手に想い描いているだけなのだから、病弱でも不幸でも災難でも何んでもですが、現在の境涯というものは全部自分でつくったものなのです。
だから、それは誰のせいでもないのです。それなのに、それを他人のせいにしたりして、それで自分の境遇が悪いなどとホザク奴がいたとするなら、その人は又々ホザク通りの世界をつくってゆくだけ。
このように、「あの世」というのも、また「この世」というのも、在ってなく、無くてある。だが、いずれも本当のものではない! 本当に在るものは宇宙神という光が唯一つ在って、その絶対なる光の分かれがこの肉体にまで来ているだけです。実在するものは宇宙神なのです。
逆に言い換えますと、宇宙神から分かれて自分がここにいますね。そうすると自分の他に人がいるわけではないということ。
ここに皆(みんな)がいるけれど、実は、それはこの自分が見ているのであって、この自分がいなければ誰もいない。自分の目だって手でふさげば何も見えやしない・・・。眠っていれば何も分からないのと同じで、自分がいなければ何も無いでしょう。結局、我在るが故に(、、、、、、)
皆があるのですからね。
すると「この世の中で在るものは」自分だけということになる。自分ただ一人がある!宇宙神の中の自分ひとりがあるだけなのです。
( 二 )
ですから善いことも悪いことも、誰の責任というのでもなく全ては自分一人(いちにん)の責任なのです。そこで自分が偉く立派になるより仕方がないということになる。
自分の心を正しく神のひびきと一つにすれば、目の前に現れてくるものは何でも神のみ心となってくる。
みんな神の光明になって現れてくるわけです。
自分の前にどんな悪い人や悪い事が出てこようとも、それは自分のものであり、自分の姿が映っているだけなのですよ。自分の出した誤った想念がそこに現れているだけだから、現れた事に文句を云うより、自分に文句をいった方がいいのだけれども、でも、それでは何の解決にもならないから、消えてゆく姿にして世界平和の祈りの中に入れなさい、というのです。
よく「私はあの人の為にこんな事をしてやった」「あんな事もしてやった」ということをいうけれども、そんな事はありゃしない! あの人もこの人もない! それは全て自分の為に尽くしているのであって、相手に尽くした事は自分にいいのだし、相手を憎めば自分が損なだけ。自分の他に人はいないのだかれね。
それなのに、あの人の為に尽くした、あの人の為に祈ってやったなどと「生意気な事を云うな」と私はいう。あの人の為に尽くすもなければ、あの人の為に祈るもないのですよ。それは全て自分の為にやっていること。自分しかいないのだから、自分が祈りそのものになればいいというわけです。
それから一々他人(ひと)と比べる者もあるが、比べる必要も全くない。自分が立派になること以外にすることはない。そうすると此の世もあの世もなく、在るのは宇宙神のひびきに光が在るだけということが、私たちにはよく分かる。
いいですか・・・
殴った奴は殴られる!
奪ったものは奪われる!
与えたものは与えられる!
というのは当然のこと。
だから、果たすべきは果たさなければならないし、尽くすべきは尽くさなければならないようになっている。
私のように前生からの事が分かれば先手を打つこともできるが、でも普通の場合は分からないでしょう。
そこで突然急に貪り(むさぼ) 取られて騙されように見えようとも、やられた事は、それがどんな嫌な事でも辛い事でも、これは過去世の因縁を返したのだな、これで私の本心が開きました。
私は心が身体(からだ)がきれいになりました。″ああ有難うございます″というような気持ちになれば、その人は本当に天晴(あっぱ)れですよ。そうなれば、もう不平も不満もないでしょう。そういうのが本当の宗教的な事というのですからね。
( 三 )
そこで横の考えとしては、何でも置かれた環境は全て過去世の因縁の消えてゆくものとして、ここに現れて来ているのだと受け止め。
縦の考え方としては、自分は神と一つであり、自分が光ることは神様が光ることだし、自分が立派になることは神様を顕現すること。だから何も他人(ひと) のために尽くしているのでもなく、全部自分の為にやっているのだと思っていれば、そのまま神様を顕現すること。だから誰のために尽くしているのでもなく、全部自分の為にやっているのだと思っていれば、そのまま神様のみ心に適うことになるし、それが神様への本心への奉仕にもなるというのです。
こうした縦横の考え方を踏まえていれば、後はもう一々あれこれ詮索しないでも、消えてゆく姿で世界平和の祈りをするだけでいいのです。
そこで一番大事なことは、他人(ひと)のことはどうでもいいんだ・・・本当はね。それよりも先ずは自分が立派になること。自分が本心の中に入って神様と一つの生き方になる事であって、他人(ひと)が何を言っていようと、何をやっていようと、そんなことは知ったことではないし、目をくれることもない。そんな事は全部消えてゆく姿。いいものは残るし悪いものは自然に消えてゆく。やがて先生が全部消します!
だからあんまり他人の事には気を揉まないで、そんな事に無駄なエネルギーを使わないで、寛大な心になって、先ずは自分が平安で幸せに生きること。
そうすればこの世は黙っていても平和になりますよ。 (五井先生ご法話・音声)