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明治維新

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 今年は明治維新150周年に当たるということで、政府は様々な行事を企画しているようである。
 明治維新は近代日本を切り拓いた偉業として学校教科書にも記述され、多くの国民もそのようにイメージしている。そのような肯定的な明治維新観は、司馬遼太郎の維新小説の影響が大きいであろう。「竜馬がゆく」(坂本龍馬)「世に棲む日々」(吉田松陰・高杉晋作)「花神」(大村益次郎・木戸孝允)「翔ぶが如く」(西郷隆盛・大久保利通)は明治維新を推進した若者たちを英雄として描いている。
 しかし、近年の歴史学は、このような明治維新観に疑問を投げかけつつある。明治維新の影の部分が表に出てきたのである。その中でも、明治維新の主力となった薩摩藩と長州藩の謀略がクローズアップされている。長州藩内の若手過激派は倒幕の主導権を握るために、孝明天皇を長州に拉致しようとした。これに失敗するや、禁門の変で天皇の御在所である京都御所に攻撃を仕掛けた。倒幕の密勅も偽造と言われている。鳥羽伏見の戦いで威力を発揮した「錦の御旗」も、勅許を得ないで創られた偽造品であった。
 討幕派は「尊皇」攘夷という名目を唱えていたが、倒幕派は天皇を「玉」と呼び、自分たちの政治的目的を遂行するための手段と見なしていた。いったん政権を手に入れると、「攘夷」も捨てて開国に邁進した。「尊皇攘夷」は幕府から権力を奪取するためのスローガンだったのである。
 目的のためには手段を選ばないという傾向が、その後の明治政府に、とくに長州藩が中心となって創られた陸軍に継承され、それが日清・日露の戦争、アジア諸国への侵略、そして太平洋戦争へとつながったと見ることもできる。
 そもそも「明治維新」という用語が一般的に使われるようになったのは昭和に入ってからである。明治当初は「御一新」と呼ばれていた。1930年代に日本の軍国主義化が進み、その中で「昭和維新」が叫ばれるようになった。天皇親政を理想とする軍の若手将校が「昭和維新」の名のもと、5・15事件や2・26事件などのテロを起こした。その関連で明治維新という言葉も一般的になったのである。「維新」という言葉には実はこういう暗い波動がこもっている。
 明治維新は日本が近代化する上で避けては通れなかったプロセスである。しかし、そこにはまた、後年の悲劇を生む様々な問題も潜在していた。明治維新を一面的に賛美するのではなく、その光と影を正確に見つめ、同じ過ちを二度と繰り返さないために、日本の真のあるべき姿を確認することこそ、明治維新150周年になすべきことであろう。(N)

月刊新聞「世界平和の祈り」平成30年2月号エッセイより

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