2020年10月18日(日)の福井支部講話会 ユーチューブにアップしました。
世界人類が平和でありますように
2020年10月18日(日)の福井支部講話会
ユーチューブにアップしました。
講師名はペンネーム「 少名子武彦」 で掲載させて頂きました。
作成は舞鶴の松浦孝博様です。(マリンバ演奏からスタートです。)
消えてゆく姿で世界平和の祈り (少名子武彦)
令和2年11月7日
身の回りにはさまざまな出来事が起こってきています。そんな出来事に会っても、視点を 変えれば、なんの心配もいらない、ということがあります。 ぬす人に取り残されし窓の月(良寛) という句がありますが、いつどうなってしまうかわからない、はかないこの世界でも、問題は世 界にではなく、みずからにしっかりとしたことがあるものかが問われます。かつてのことは今 在るものによって既に無く、今あるものはやがて消えてゆきます。変化していること自体は変 化しません。このことが救いをもたらします。
1.消えてゆく姿
そもそも救いとはなんでしょうか。それを知るために、救われていないということをはっきりさ せましょう。救われていないとは、安心がないということです。安心がないということは安心を 求めて已まないことです。なぜ已まないかというと、求めることによって求めているものが手 に入らないからです。すると、救いとは求める心が已むことだとわかります。求める心はどこ から生じるかというと、救われていないという思考からです。救われていないと思うから求め る。求めると救われない、という二重のブロックによって、完全にロックされてしまい、救われ ない状態が安定化します。
すると、この安定した救われない状態から解放するのが、救いということになります。救わ れないということが、救われていないという思い込みからはじまっているので、救われている と思いなおせばいいことになります。救うも救われるもはじめからそんな言分ける必要もない ぐらい嬰児のときは問題にすることがなかったはずです。大人になっても、朝起きてから寝る まで救うとか救われるとかやってることはごく短時間でしょう。珈琲飲んでいるときは珈琲の 味。秋の空を眺めているときは秋の空です。なんの問題もない。問題がおきているのはアタ マがこの今をはずして過去や未来に手を出しているときだけです。過去にも未来にもアタマ を煩わせなければ生まれたままの今の様子です。
のつぺりと師走も知らず今朝の春(良寛)
では、どうしたら救いが体験されるでしょうか。救われていると思いなおせばいいと言って も、ダブルの囚われ(ブロック)の中にいるとき、なかなか思えないものです。そこで、五井先 生の「消えてゆく姿」の教えが必要になってきます。「消えてゆく姿」の教えというと、自分の 意に沿わないことをしてしまったり、おきているときに、これは過去世からのあやまてる想念 がその運命と現れて消えてゆくときに起こる姿である、と思うことです。つまり、起きた事象の 事後処理としての思考による操作です。それによって、起きた事象をいつまでも悔いること なく、今の様子にを取り戻すことができます。今の様子にはブレがありませんから安心の座 です。するとダブルの囚われを起動することがなくなります。 そうして、能動的に事後処理の「消えてゆく姿」していくうちに馴れて、次第にその事後処 理の手間が次第に短くなっていきます。2~3日かかっていたのが、半日、一時間、一秒、そ してほぼ同時になっていきます。同時というのはもう「消えてゆく姿」と事後的に思わないとい うことです。すると、能動的な「消えてゆく姿」という操作ではなく、おのずからの事象、つまり 自然のなりゆきになります。
うつるものおのずうつりておのず消ゆ己は澄みてただひそかなり (五井先生)
もうさっきのことは過ぎ去ったこと。今のことがこうしてただ在るだけです。「在る」という存在 なんです。能動的な「消えてゆく姿」(DOING)から受動的な「消えてゆく姿」(BEING)です。 体験としてあるけれども、そのあるはもうない。あってない、なくてある。これは自然であり、生 命の時間性です。みずからとおのずからが一つになった時間性です。その立ち位置が「今」 です。ここが救いです。誰でもが今を生きていないひとは誰もいないので本来は救われてい るのですが、救われていないと想像することはできます。余計な想像が已むこと、それが救 いの体験です。真の救いは個人にとどまらず、必ず他者へと向かいます。
己が幸願う想いも朝夕の世界平和の祈り言の中 (五井先生)
2.世界平和の祈り
「消えてゆく姿」によって囚われのないニュートラルな状態が実感できます。さらに一歩す すんで、言葉、思考、行為によって光明化することが可能です。光明の言葉とは祈りです。 「受肉したロゴス」というのはキリスト教の言葉で、ロゴスとは言葉です。祈るひとはこの身に 光明を収めた者です。 ひとが約束の祈りを祈るとき、この身に時のはじまりからの約束事が着床します。浄土真宗 では「願う前に願われている」といいます。人生における苦悩から救いを求めたとしても、救 いを願う前にすでに願われている存在だということです。先に願っているのは神です。という ことはすでに救われているのですが、物語にすると納得するというのもあって、阿弥陀如来 の本願として伝えられています。ここで大事なのは自分の思考が、というか自分そのものが はじまる以前からの呼びかけがあるということです。気の遠くなるような、過去の過去から、つ まり時が始まる前から、「あなたが救われなければわたしは救われなくてもよい」と永遠の他 者が呼びかけている。これは浄土真宗だけの話ではありません。キリスト教でもあります。キ リスト教ではああやって、磔になられて人々の救いを成就したのです。二千年たって五井先 生も世界の業を一身に引き受けられて人類の救いを成就されたのです。
月かげの いたらぬ里は なけれどもながむる人のこころにぞすむ (法然)
月は救いの証です。その月の光がいたらないところがないのだけれど、眼をそちらに向け ないことにはそれが体験できない、という法然上人の和歌です。弥陀の本願やキリストの十 字架のように、人類の救いはすでに成就されているのです。イエスは磔にかかったとき、ゴ ルゴダの丘に三本の十字架が立てられました。十字架は極悪人に対する極刑です。両側 には二人の強盗がつけられ、しかしその真中には全く罪の無かったイエス・キリストが十字 架につけられていました。キリストの十字架は罪人(全人類)の身代わりのゆえです。二人の 強盗は最初はどちらもイエスを罵倒し、嘲っていました。しかし、途中で強盗の一人に明ら かな変化が起こりました。十字架上のイエスのただならぬお姿を見て、彼はイエスを神をみ て、心から救い主と信じたのです。その悔い改めた強盗に対するイエスの約束のことばが、 「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ の福音書23:43)です。どんなに罪深い人も、悔い改めてキリストの救いを信じるならば、救 いを受けることができるのです。このキリストの言葉は現在形です。一面から言うと、因縁因 果からすれば犯した罪によって報いを受けるのですが、過去に犯したこととは無関係に結果 を変更してしまったことになります。ひとは、はじめから救われている存在だからです。 救われない、というのは誰が言っているのかというと他ならぬ当のご自分だということです。 そこで、聖者賢者が現れて、本来救われている、信じられないならほら、わたしが身代わりに なろう、ということで一身にカルマを引き受けられたのでした。 いよいよ地球世界の変革期になって、神界との約束事としての世界平和の祈りがもたらさ れました。「この祈りは、五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の 大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮 するのである」と説かれています。「自分が救われるとともに、世界人類」も救われるという、さ らに大乗的な祈りにバージョンアップされています。それでいて、はじめからおわりなき進化 の道のりとして「消えてゆく姿で世界平和の祈り」は老若男女が歩くことができる真理の大道 になっています。
世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈る楽しさ (五井先生)
福井支部:篠田幸子
追伸
(下記の素晴らしい感想を頂きました)
福井支部の講話会に参加し、消えていく姿等の神髄に触れることができて本当に良かったです。
ZOOMのリーダーとして時々お目にかかり霊性の高い方と感じていましたが、神域から発せられる言葉と納得できる素晴らしいお話でした。
お誘いいただきまして心より感謝します。